吉原のソープランドの歴史は江戸時代から受け継がれてきました。
1617年、江戸幕府公認、「遊廓」として誕生したのがきっかけと言われています。
元々は日本橋を吉原と呼んでいたそうですが、次第に周囲の市街化が進むと、遊廓を浅草へと移し、「新吉原」(通称:吉原)となったようです。
遊廓の周囲には9m程の堀があり、遊女と呼ばれたいわゆる売春婦が、自由な外出もできずに入れられていました。
遊女には花魁(おいらん)、かむろといった身分差別もありました。
街のお店にも、格式高い大店から路地裏の小店と、店の序列もされていたようです。
当時の一流の遊女は、茶道や和歌といった教養を身につけており、気品もあったため、初めてのお客とは一緒に寝ることはなく、2~3度目でようやく枕を交わせるようになったとされています。
遊女や吉原遊廓は浮世絵や和歌などの題材にもされた社会現象の一つでもありました。
明治時代になってもこの風潮は変わらずあり、好みの女性を写真で選ぶようになったことから、現在の風俗の先駆けになったとも言えます。
1958年、売春防止法の施行によって吉原の街は次第に活気がなくなり、遊廓は、連れ込み旅館やトルコ風呂、(個室で2人きりになり、性的なサービスをする風俗)やがてソープランドに転業していきました。
のちに、風俗営業等の規制の法律が定められたことにより、営業は認められなくなりました。
しかし、吉原の歴史的実情が考慮され「特例地域」として営業ができるようになったのです。
これには条件があり、新たにソープランドとして建設し、営業することは認められませんが、現行の建物を改装するなどして使用する場合に限り、ソープランドとして経営ができるようになりました。
現在、吉原のソープランドは日本一と呼ばれるようになりましたが、その背景にはこういった古くからの歴史が密接に関係していたのです。